すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

普通、に戻る。

おそらく、小さい頃の私は、

大人になったら、普通に結婚して、普通に子どもを産んで、普通に誰かの奥さんとお母さんをやるものだと思っていたはずだ。

 

いつの頃か、

多分、高校生ごろだと思う、私はその価値観をつまらないものして、ポイとあっさり捨ててしまった。

 

かわりに、

女の人でも、自立して男性と同様バリバリ働ける時代なのだから、

賢い女の人なら専業主婦にならない、

賢い女の人なら普通におさまるべきではない、

賢い女の人なら自分でも稼げる力を持たなくてはならない、

 

と、誰かからもらった価値観や観念をカッコいいものとして、正しいものとして、賢い女の人をめざして、そこに自分を当てはめようとして生きてきた気がする。

普通には、絶対になりたくない、そう思って生きてきた気がする。

 

でも、残念ながら、私はいわゆる賢い女ではなかった。

バリバリ働ける女ではないし、

なんなら稼ぐ能力も仕事への情熱も野心も忍耐力も体力すらも、決して高い人間ではなかったのだ。特に体力は致命的だ。

 

それを見ないふりして二十代の頃は超激務の職種に就き、三十代になってからは福祉系の国家資格をとって、その道の専門家のはしくれとして生きていた。

 

まあ、根が真面目ではあるから、それなりに役に立ち、それなりの評価を得ながら働いていた。

 

でも、いつも、何かが違う、腹の底から面白いと思えない、という思いが自分の中にくすぶっていた。イキイキしながら賢い女の人をやっている友だちと自分のギャップに気づいていた。

 

結婚しても、子どもを産んでも、賢い女の人にならなくては、の呪縛は消えず、無理やり家庭と仕事の両立にこだわって生きてきた。

 

もちろん、すべてやってきたことを否定するつもりはないし、その環境に身を置いたからこそ手に入れたもの、出会えた人たちもいる。楽しかったこともたくさんある。

 

でも、それは、やはり私の本質とはズレていたのだ。

 

ということに、この歳になって、ここ数年いろんなことがあって、やっと気づいた。

というか、気づいても気づかないふりをしてきた自分に、

 

「賢い女でなくていい、

そのままでいい。

そのままがいい。」

 

と、

自分の真ん中から湧き上がる力強い声が、強烈な許可を出したのだった。

臨界点がやってきたのだ。

 

私が生きようとしたのは、私がめざしたのは、誰かの価値観や観念だったんだな、とわかった。

 

賢い女も賢くない女も、どっちが優れている、どっちが劣っているか、ではなくて、どっちもいい、自分に合っているならどっちもいいのだ、とわかった。

 

だから、もう、自分の普通、自分にとっての普通を生きることにした。このままの自分に合った普通に戻ることにした。

 

それは、小さい頃になんとなく思い描いていた普通に近いようなそうでないような。

 

とりあえず、仕事をやめた。

賢くない自分にダメだしして、賢くなれ、と尻を叩くのをやめた。

 

呼吸が楽になった。すべてが楽になった。