すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

思考。

思考があるから苦しいのではない。

 

その思考を信じているから、

その思考の言うことが事実だと認識するから、

その認識がもたらす反応・感情が不快だから、

苦しいのだ。

 

背の高い人が「ちび」と言われて苦しまないのは、自分=ちびという思考を信じていないからだ。

 

人間は、まるで装置のようだと思う。

その思考も、その認識も、その感情も、自覚的に生じさせているものではない。

すべて勝手に起きて、「苦しい」まで自動的に運ばれていく。勝手に起きてしまうのに、その自動システムを自分なのだと思い込み、その自分を責めて否定し、さらに苦しむ。自責に耐えられないと、他者や世の中を責めて混乱を抱え込む。

 

けなげだな、と思う。

愛しいな、とも。

そんな思いがわいたら、しめたもの。

けなげで、愛しい自分にできることは、ただ一つ。

 

その思考を信じないこと。

その思考を疑うこと。

その思考の外側に行き、距離をとって、観察すること。

 

そうしたら、その思考が自分じゃないって、ありありとわかるから。その自動システムを味わい愛でながら、装置でしかなかった自分を少しずつ自由にしてやれるから。