すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

久々の、鬱。

坂口恭平さんのツイッターを最近よく見ている。

いいなあ、と思う。うん、とってもいい。鬱や躁鬱の人には薬以上の薬効があると思う。

 

なぜ、そんなにいいと感じるかといえば、私がいま鬱という状態にまさしくいるからだ。

二週目くらいに突入したかな。こうして文字を書けるから重篤ではないだろうけど、疲れがたまっているというレベルとは質的に違うのがわかる。エネルギーがバランスよく自分を流れていないといえばいいのかな。

 

症状といえば、めまい、眼振、頭痛、肩こり、首のこり、胃腸の不調、そして力が入らない、身体が重い、やる気が起きない、他人と話したくない、知っている人と交流したくない、横になっていたい。

でも食欲はある、果てしなく眠っていられる、涙が止まらない時がある。

 

結婚してしばらくたってからと、30代に入ってすぐに同じような症状があったから、「あ、あの時の感じだ」というのが何となくわかる。

 

今、その二回の時と明らかに違うのは、体はつらいのだけど、苦しいのだけど、でも絶望的とかではないの。死にたい、とかでもないの。

 

前回、前々回の時は、「そんな自分を責める」というのがあったから強烈だったよね。鬱になってしまう自分、うまくできない自分、弱い自分、全部がバッテンだったからそんな風になっちゃう自分を責めてたんだよね。他の人はちゃんとできるのに、って。でも、どうやって元に戻ったんだろうか。あんまり記憶にないなあ。

 

今回は、その「責める」がほぼないの。責める自分も責められる自分もどこにいる、ってくらい薄くなっちゃって。ただ、ここに身体があるの。エネルギーが上手く流れていない身体があるってだけ。

 

鬱って心の病じゃないよね、って本当に思う。人としての弱さとかでも全然ない。体質だよね。体の、脳の、特性だよね。しいて言えば、反応する力が強いということだと思う。

 

外側のこと、自分の中の不一致に、ものすごく反応する力が強い。イエスが強い代わりにノーもものすごく強い。

 

この世界はノーがなかなか言えない世界だから、そのノーを一生懸命自分の中で何とか消化しようとして、消化不良になっちゃう、みたいなさ。

 

HSPという人たちの特徴に私も当てはまるのだけど、繊細な人たちって、弱い人ではないのだよね。むしろ反応できるという点では強い人だと思う。

反応することがこの世界は大変だから、この世界の常識では「弱さ」というレッテルを貼られがちだけど。

 

今の私はありがたいことに、仕事をしていないし、夫は単身赴任、転勤族だから近所付き合いも学校付き合いも希薄。

世話をするのも小学生の息子だけ。息子のおかげで、鬱の中にも感情が起こり、笑いや諍いが起こり、ルーティンと時間感覚が保たれている。

 

最低限の日常をこなしながら、何に意識を置いているかといえば、体の要求に徹底的に答えること。心の声や魂の声は、頭にもやがかかってもうわかんない。ひたすら体に従っている。体に導いてもらっている。

 

食べたいときに食べたいものを食べたい量食べる。

明るいリビングでソファーに横になる。

カーテンを閉めて寝室のベッドでねる。

録画したドラマを見る、疲れたらすぐ消す。

夜、息子の塾のお迎えがてら散歩したり買い物する。

 

体への接し方は、優しくて献身的なお母さんであり、有能で従順な秘書や執事だな。

 

さあ、鬱明けはいつかな…。

早く明けてほしいな。