すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

いろんな仲間。

先日とある本屋に行ったら、あるコーナーに人だかりができている。夏休み中の小学生男子たち7、8人、学年はバラバラかな。

 

そのコーナーとは、図鑑系の棚。王道の大型版図鑑からミニ図鑑、流行りの読み物系やサバイバルシリーズまで、図鑑系のあらゆるジャンルが揃っている。

 

立ち読みだったり、用意された椅子に座っていたり、壁にもたれていたり、みんな思い思いの方向に体を向けて、互いに邪魔にならないバランスで自分のスペースを確保している。

 

ちなみにこの本屋さん、ファミリーを相手にしているからか、子どもの立ち読みに非常に寛容な様子。

 

私、しばらく立ち止まってじいーっと見入ってしまった。

 

恐竜やら危険生物やら昆虫やら天体やらサイエンスやら、それぞれがそれぞれの惹かれる世界と我を忘れて交信してる小さな姿たちに。そして、彼らからは「こうきしん」と「むちゅう」というとっても質の良い波動がユンユン出ている。本屋の中でその一角だけ、シンと清冽な空気が広く漂っているとでもいうかな。

 

あ、子どもっていいな、男子に多いこのオタク的な感じ超いいな、ってしみじみ。(女子の中にももちろんオタクはいますね)

 

そして、彼らはきっと顔見知りではないだろうけれど、もうこれで仲間だよな、と思ってしまった。同じ穴の狢というオタクを揶揄する意味合いではなくて、結構本当の仲間。似た波動で共振しあっている仲間。

 

積極的なコミュニケーションをわざわざとるような間柄じゃないけれど、ラグビーやサッカー、野球などの集団競技で切磋琢磨しながら1つの目標をめざす熱い絆はないけれど、これも紛れもなく仲間だよ。

 

違う世界を覗きながら、違う夢中を追いかけて、新しいモノを知る喜び、彼らの胸のあたりからは同じものが溢れモクモクと立ち上っている。一期一会だけれども、見えないものでゆるやかにつながっている関係。

 

で、もしかしてふっと目があった時、彼らはお互いの世界については語り合わないけれど、いやちょっとは語るのかな、ニコッとかニマリとか軽く微笑むんじゃないかな、と想像したりして。言葉にするとちんぷだけど、「よ、君もか!」ってな感じでさ。

 

前回書いた谷川さんの「ともだち」の詩もそうだけど、仲間っていったって、別にいつも一緒にいたり、遊んだり、会話したり、濃いコミュニケーションを交わす仲間だけじゃないんだよね。いろんな定義があっていい、いろんな仲間がいていい。だってそっちの方が楽しいし、豊かなんじゃないかな。

 

そんなことを思った、夏休み終わりの午後のひととき。