すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

感情の幅。

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息子の春休みに、義両親と私と小学生の息子の4人で、温泉旅行に出かけました。夫がいても、このシチュエーションの旅行はかなりハードルが高かったのに、今回は仕事で多忙な夫抜きでの決行、意外にあっさり、純粋に楽しめました。

 

義理の関係とか、嫁姑とか、なんとかの関係というものが、今回は私の中ですっぽり抜けて不思議な旅だったのです。

 

そしてね、夫の家族の空気、とも言うべきか、彼がどんな思考になれ親しみ、どんな感情をよく感じ、つまり、どんな周波数の環境で育ってきたのが改めてよくわかった数日間でした。

 

これ、今までももちろんわかっていたはずなのに、わかることを拒んでいた何かが自分の中にあったんですね。でも、今回はその何かが邪魔をしなかった。

 

感覚的な説明をすれば、彼らの周波数には、私のそれとは明らかに違う何かが含まれ、私には確かにある何かが彼らにはほとんどない、という感じです。

 

夫のお兄さんも息子の相手をするために、夫の実家に遊びにきてくれましたが、その振る舞いがまさにこの家の象徴。

 

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端的に言うと、夫家族には、

意地悪な気持ち、腹黒さ

というものがほとんど存在しないのですよ。

 

そうした気持ちを抑圧しているわけではなく、無理にいい人を演じているわけでもない。

 

私が、彼らのその感じをわかりたくなかったのは、私自身、彼らがもたない意地悪な気持ち、腹黒さ、をしっかりと知っているし、感じることもできるからです。

 

もっといえば、そんなダークな自分を無意識にジャッジして、彼らに劣等感を感じていたのかもしれません。

 

でも、そんな私を夫は好きになり、夫の家族もとても大切にしてくれる。私にも夫にも似た息子も、この家族が溺愛してくれる。

 

夫は、自分の父親のように価値観や雰囲気の似ている人とは結婚せず、母親とは明らかに違うタイプの女を妻にした。

 

不思議なものだな、と思います。

 

この辺のことを、親友が解説してくれました。

 

「ダンナさんの家族はいい人たちだと思うけど、話を聞いていると、感情の幅が狭いよな、って感じる。それだけじゃ、つまらないって言うこともできる。人間の本質ってあらゆる感情を経験したいものなんじゃないかな。だから、あなたがその家とつながることでバランスが取れた気がするな」

 

なるほどなー、と。

 

昔、津留晃一さんの「神というのは、すべてのエネルギー周波数を均一にもっている状態」という内容のメッセージを読んだことがあります。

 

神が、聖人君子的な人格を持つものではなく、善悪を超えた全て、なのだとしたら、人が自分の中の神、全体性を体験することとは、言うなればあらゆる感情を体験することなのかもしれません。

 

その全てを自分が感じることをしてこなければ、偏りが生じて、自分が慣れ親しんだ思考、感情とは反対側のそれらをもつパートナーを選んだり、例えば子どもがそのもう片方の半身の自分を生きることになる、ということも当たり前に起きるのでしょう。

 

記憶を辿れば、ユング心理学を日本に広めた河合隼雄氏の影の現象学 (講談社学術文庫)は、まさにこのことを神という言葉を使わずに説明した名著です。

 

私たち人間は、そうして他者を使ってでも、神を表現しよう、全体性に帰ろうとするものなのかもしれません。

 

 

私が今回の旅でフーッと楽になったのは、こうした気づきによって、私は彼らのようでなくていい、私はこのままの私でいい、と腹の底から思えたことでした。

 

そして、自分の半身を生きる私や息子をそのまま受け入れる夫の家族の大きさ、懐の深さには、感謝しかないのでした。

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