すれっからし手帖 II

気づきとともに。ハートとともに。

ハードなゲーム。

私の身長が低いのは、

体力がないのは、

手先も器用でないのは、

働き者でもないのは、

それらにコンプレックスを持って

克服するためではなく、

そんな愛しずらい私を、

私が愛することができるようになるためだ。

そんな愛しずらい私だからこそ、

私を愛してくれる人と出会えるためなんだ。

 

私が落ち込みやすいのも、

罪悪感を抱えやすいのも、

気持ちの切り替えが下手なのも、

人に気を使いすぎて

最後爆発してしまうのも、

それがどうしようもない欠点なわけではなくて、

その性質を変えようとするまえに、

そんな難しい私を、

私が許して受け入れて、

ふさわしい舞台を選んであげるためなんだ。

 

一見すると

マイナスでしかない個性をたくさん持った自分を愛するなんて、

ものすごく大変で、骨折りなんだけども、

この人生を生きるっていうのは、

本当の自分につながるというのは、

そういうハードなゲームにチャレンジすることなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思考。

思考があるから苦しいのではない。

 

その思考を信じているから、

その思考の言うことが事実だと認識するから、

その認識がもたらす反応・感情が不快だから、

苦しいのだ。

 

背の高い人が「ちび」と言われて苦しまないのは、自分=ちびという思考を信じていないからだ。

 

人間は、まるで装置のようだと思う。

その思考も、その認識も、その感情も、自覚的に生じさせているものではない。

すべて勝手に起きて、「苦しい」まで自動的に運ばれていく。勝手に起きてしまうのに、その自動システムを自分なのだと思い込み、その自分を責めて否定し、さらに苦しむ。自責に耐えられないと、他者や世の中を責めて混乱を抱え込む。

 

けなげだな、と思う。

愛しいな、とも。

そんな思いがわいたら、しめたもの。

けなげで、愛しい自分にできることは、ただ一つ。

 

その思考を信じないこと。

その思考を疑うこと。

その思考の外側に行き、距離をとって、観察すること。

 

そうしたら、その思考が自分じゃないって、ありありとわかるから。その自動システムを味わい愛でながら、装置でしかなかった自分を少しずつ自由にしてやれるから。

 

 

 

こんな自分、と生きていく。

やりたいなぁと思っていたことをすんなりやれてしまう人

自分にはとてもできない道を突き進みキラキラ輝いている人

頑張って仕事して頑張って家事もして頑張って育児までスマートにこなしている人

 

自分とは違う、そんな人たちのニュースを見たり、そんな人たちの情報に触れると、途端に落ち込んだ気分になる。

 

この気分、嫉妬や自己否定や罪悪感、みたいなもの、

言い換えれば、この人たちと比較して、自分はこんなだ…、という自分に失望する思いから発生する気分だ。

 

この気分が起きる時は、この思いに基づいて、この思いを真実だと信じて行動しそうになるけれど、

 

たとえば、だったら、自分もやりたいことをやればいい、自分もキラキラ輝く道を探せばいい、自分も頑張ったらいい、と、今のこんな自分を何とか変えようとすることに舵を切ろうとするけれど、

 

でも違うのだよ、全然違う、そうじゃない、と気づいた。

 

この気分がやってきたら、この気分をもたらした思いこそ、疑うべきって。

 

「こんな自分」と自分に失望し、自分を貶めた思いの方にこそ、取り組むべきだって。

 

やりたいなぁと思っていたことがなかなかやれない自分

自分も他人も魅了するキラキラ輝いた道を歩いていない自分

仕事も家事も育児も全然頑張っていない自分

 

こんな自分をやりたくて、私は生まれてきたんだし、こんな自分を生きたくてこんな自分を生きている。こんな自分が考えること、感じること、ポジティブもネガティブもすべて体験したくて、私は今ここにいる。

 

あの頃のこんな自分も、今のこんな自分も、未来のこんな自分も、全部よしなんだ。

 

自分が、こんな自分を受け入れた時に行動が起きるなら、こうありたいという思いが起きるなら、それに従えばいいし、起きなければ、それはそれでいい。

 

覚えておきたい。

落ち込んだ気分は、こんな自分、がもたらすんじゃない。こんな自分、と自分に失望する思いから起きるんだ。

思いを外したら、こんな自分は、どんな自分だって、いつも完璧なんだってこと。

 

 

循環が大きくなるとき。

ほぼ毎日、瞑想の時間を15分くらい取っています。あまり厳しい取り決めはなく、アロマを使ったり、ヒーリング音楽を取り入れたり、姿勢も座禅組んだりソファに寝転がったり、その日の気分や体調に任せた自己流。

 

瞑想は、呼吸から入るのが基本ですが、私はこれがなかなか苦手でして。というのも、私の呼吸が細くて浅くて、観察の対象としては弱いのですよ。

 

ところが、この呼吸から、今日大きな気づきをもらいました。

 

鼻腔のところに意識を合わせながら、少し頑張って、吸う感じ、吐く感じを感じようとしますが、相変わらず、弱くて、浅い。

 

ダメだなぁ、と思いながら、ふっと、この吸った空気は、私の身体のどこに行ってどうやって戻ってくるんだろう、という好奇心が湧きました。

そして辿ってみると、微細ではあるけれど、たしかに喉を通り胸のあたりを回って身体の外へと吐き出している。

 

するとまあ、何というか、

すごぉい、

ありがたぁい、

しかも、全部ただだよ、

なにこれ〜!

という感謝と感嘆の気持ちが溢れて、涙もふわぁー、と止まらなくなりました。感謝、感嘆の対象は、空気や鼻、肺、この身体を無条件に生かしてくれている見事な呼吸というシステムですね。

 

そうしたら、不思議なんですが、呼吸が途端に深く、大きく、ゆっくりとなっていったのです。その変化、吸う喜び吐く喜び、があまりに鮮明で驚いてしまい、すでに瞑想してる場合ではなくなってしまいましたよ(笑)。

 

鼻も、肺も、呼吸というシステムもずっとあった。空気も無限にあった。その素晴らしさ、ありがたさに気づき、喜びを持って受け入れたとき、その循環は大きくなっていったのですね。もっともっと吸えるようになり、吐けるようになったんです。

 

私たちの命の法則は、吸って吐いての呼吸と同じ。吸ったものを充分に味わい喜びや感謝に変えた瞬間、吐くものは豊かさを帯びる。それが大きな循環につながっていきます。

 

与えるものは受け取るもの、って考えると、与えなくちゃという窮屈感がやってくるけれど、呼吸がリラックスしないとうまくいかないように、与えるは、そんな頑張ったものじゃなくて、喜びや純粋な感謝という意図のないリラックスを前提にするものですよね。

 

息子を見てると思いますが、子どもは、この辺がとても上手ですよ。吸ったものが自分を楽しませるものだったり気持ちよくさせるものだと、大喜びしてはしゃいで、周りを幸せにする感情を吐きだします。

 

それ見ると、また、与えたくなるじゃないですか。もっといいものを、もっと楽しいものを。親やジジババ、まわりの大人は(笑)。でも、損した、とはならない。実は子どもに与えられていることに無意識に気づいているから。

 

子どもは与えられる存在じゃなくて、もっとも与える存在なんですよね。喜び、という豊かな感情エネルギーをね。だから、多寡に限らず、うちも息子の所にばかり、豊かさが集まってきます。一番財産は少ないけれど、一番集まってきて、循環の輪が一番太いですもん。

 

呼吸も、人間関係も、お金や豊かさ、も、循環が大きくなるのは、リラックスしているとき、そして、与えてほしいものを与えられた時に素直に受けとり、味わい、喜べるか、なんですよ、きっと。

 

明日は、ちゃんと瞑想しますよー。

 

 

 

 

 

自分の心を青空にする。

息子と夫、2人でお泊り帰省中です。

久しぶりに、ゆったり、のんびり、優雅なひとり時間を満喫して、息子への愛おしさ、夫や義理の実家への感謝が静かに湧いてきます。

 

夏休みの日々、息子と一緒にいることが多くて、息子からの要求も絶え間無く、息子に対する気持ちの中に、

「もう、イヤー!あっちいけー!私をひとりにしてくれー!私の邪魔するなー!」

というのがかなり居座っていました。

 

まあ、愛しい息子に対して母としてあるまじき感情、という常識的な話は置いておいて、これは私にとっては大切な大切な感情であり、自分に対処を迫るサイン、無視するわけにはいきません。

 

この感情に居場所を与え、話を聞き、その願いを受け入れることが、なによりも優先事項。

 

そして、その願いが叶えられるやいなや、本来の愛に根ざした感情が、戻ってきたわけです。

 

本当は、これでめでたしめでたしなんです。が、ここから、やってしまいがちなんですが、「ああ、あんな酷いこと考えて悪かったなー」「自分だけ楽になって申し訳ないな」となるのが母のさが、いや「いい人」思考の癖です。

 

「もう、イヤー!」という思いが満たされ、心の曇り空がスッキリした青空に変わったのに、また違う雲、罪悪感という分厚い雲を居座らせてしまうのではもったいない。

 

自分を優先するのは悪いこと、嫌な感情や思いは感じないようにして愛だけを感じるべき、に支配されると、青空を覆う雲はどんどん厚くなり、広がってしまいます。

 

イヤー!をしっかり感じてその欲求を満たしたからこそ現れてくる愛、なんですね。この順番、この仕組みがわかっていれば、罪悪感がきても「いやいやいや、それ違うから」と軽やかにスルーできます。

 

例えば、あの人が憎い、あんなことされて嫌だった、という思いを、無理やり思考でねじ伏せることってありますよね。

 

一般常識の世界や、悩み相談の回答も、「あの人にもいいところがあるよ」「それくらいは我慢しないと…」的なものが多くて、他人に相談したら苦しみが増した、という場面も少なくありません。

 

憎しみ、嫌い、という感情は、あんまり歓迎されない感情たちです。でも、やってきたこの感情たち、今あるこの感情たちをないがしろにしたらしただけ、雲は分厚くなります。

 

この感情たちを充分に受け入れてはじめて、例えば「あの人にもいいところがあるよ」も素直に無理なく受け入れられるのです。この逆は、根本的な解決にはなりません。

 

まずは、自分の心を青空にすること。いい人思考や罪悪感の強い人ほど、ここに専念すればいい。

 

「イヤー!」が癒されつつある、ひとり時間のひとり言でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我慢か、愛か。

小学生の息子は、嫌いな野菜が多い。というより、好きな野菜がほとんどない。

 

きゅうり、ブロッコリー、じゃがいも、人参、コーンが好きだと本人は言うが、それも、「好きな野菜がないのはマズイ」という、彼なりの小さなプライドによるもので、普段の食べっぷりをみても、その野菜たちが「好き」というカテゴリーに入るシロモノではないな、と母は勝手に思っている。

 

男の子特有なのかもしれないが、自我の芽生えが起きてきた頃から、彼の野菜嫌いが始まった。そして、その頃の私は、特に子育てにおいては、真面目で常識的で「べき」や「ねば」が沢山あった。食事に関しては、「好き嫌いはできるだけしない」「三角食べ」「苦手な野菜も克服すべし」なんて考えに支配されていた。

 

でも、目の前の息子は野菜を食べたがらない。それをみて、なんとか言いくるめたり、「これ食べないとオヤツあげない」とか「野菜を食べないと病気になるよ」とかなんとか、半分脅して食べさせようとした。でも、嫌なものは嫌なんだろう。一口食べるごとに苦虫を噛み潰したような表情になった。見ている方もたまらなかった。自分が逆の立場だったら、と胸が苦しくなった。

 

堪え性のない私は、すぐに降参だった。その頃読んだ、「子どもが野菜嫌いで何が悪い!」という本にも後押しされて(「子供が野菜嫌いで何が悪い」幕内英夫 - すれっからし手帖 ←この本を紹介した以前の記事)、もう息子の野菜嫌いと格闘するのを辞めた。自分が採用していたガチガチな考えを捨て去ったのだった。

 

それから、数年。小学生になった息子は、給食で嫌いな野菜に出会うと、牛乳で無理やり流し込んだり、パンが入っていたビニールの包みにこっそりくるんだり、残してもよくなる給食の終了時間まで粘ったりしてやり過ごしている。学校が好きで、基本脳天気な息子も、給食だけはストレスフルに違いない。

 

そんなこともあって、家では、ほとんど息子の嗜好を優先して、好きでもない野菜を食べさせることはしていない。母子で違うメニューにすることも結構ある。

 

数日前にある出来事が起きた。

 

その日の夕食に、私は、春雨と牛肉の炒め物を作っていた。息子が学校では食べられた、と自慢していたアスパラとブロッコリー、人参を加えた。ふと、あー、別々のメニューを作らないって楽だな、息子が新しい野菜を好きになってくれたら嬉しいな、という気持ちが湧いてきた。

 

見た目も美味しそうだし、味には自信があるし、きっとこれなら美味しいって食べてくれるぞ、って密かに期待した。

 

いざ食卓に出すと、その期待はあっけなく裏切られた。息子は、好きではないおかずが出てくる時にいつもするように、ご飯ばかりを先に食べて、おかずは面白くなさそうに箸で突いているのだった。

 

それを見て、いつもは愚痴程度でやり過ごすのに、突然に猛烈な怒りが突き上げてきて、息子に怒鳴り散らした。 

 

最初は、

そんなんじゃ栄養が偏って病気になるよ!

もうあんたのご飯は作りたくない!

おやつをたくさん食べるからこうなるの!

好き嫌いが多すぎる!

という息子を責める声だった。以前、ガチガチだった私とよく似た声だった。

 

やがて、

お母さん、別々のメニュー作るの嫌だ!

一生懸命作ったものを食べてもらえないのは悲しい!

という、こうされるのが嫌、悲しい、という自分の感情を告白する声になった。

 

息子は申し訳なさそうな表情になって、「いいよ、食べるよ」と、好きではないおかずを静かに食べ始めた。全然嬉しくなかった。その姿に傷ついた。自分の要求と期待を一方的に息子に押し付け、息子に望まないこと、嫌なことをさせてしまった自分に耐えられなかった。そして、やっぱり、今まで通りのやり方にしよう、息子を優先させよう、という、その古びた思考がやってきた、

 

と、その時に、

 

ダメダメダメ!その思考がダメ。その我慢こそがすべての元凶なんだってば。私の心にある「悲しい」「◯◯してほしい」という叫び声が、もう私の声を無視するな、と釘を刺した。

 

息子が寝てから考えた。というより、最近のやり方は決まっている。自分の中にある思いをどれ一つ殺さず全部ここに晒してみて、あとは、全部神さまに投げちゃおうって。作ったものを食べてもらえないのは悲しい、おかずをいつも別々に作るのは面倒だから嫌だ、息子に無理矢理なことはしたくない、息子に我慢をしいたくない、等々。

 

そしたら、ほどなく降ってきた。アイデアが降ってきた。息子に、好き、普通、嫌いの食べ物リストを作ってもらって、私は、そのうちの好きと普通を作る。嫌いリストにあるものは作らない。

 

息子に提案すると「嫌いは無理だけど、普通までなら食べるよ」と気持ちよく賛同してくれて、リストも細かく作ってくれた。

 

そしていざ、これまで作ったことのなかった卵とほうれん草のスープを少なめにして食卓に出した時、息子は、少し無理していたかもしれないけれど、「思ってたより美味しかった」と言ってくれた。

 

そして、私も、「嬉しいな。君と一緒にほうれん草の入ったスープが食べられるなんて、夢みたい」と、応じた。多分、二人ともとっても心が満たされた。

 

自分の好きと相手の好きと、自分の嫌いと相手の嫌いと、全部どれにも文句をつけずに並べて、その中で、たとえば自然に自分の好きをお互いが譲る行為がでてくるとき、それは妥協なんかじゃなくて、自分の中の愛と相手の中の愛が拡大することになるって発見があった。

 

そこに、無理やりとか抑圧がないことが大前提だけれどね。妥協と認識するなら、やっぱり譲らない方がいい。もっと違うやり方があるはず。愛と妥協は、そのエネルギーが果てしなく遠いから。

 

とにかく、自分にも他人にも正直でいることが、愛の恩恵を引き出すコツかも。自分の中にあるものを全部誤魔化さずに吐き出すと、神様は最良のやり方を教えてくれる。

 

本音を言う、感情を伝える。

本音を言う、

感情を伝える、

 

ということが、

トラブルを引き起こしたり、

相手に受け止めてもらえないことがあるとすれば、

 

その本音が、

その感情が、

 

自分の中で大切なものとして、

扱われていないから。

 

その本音を、

その感情を、

 

相手を断罪するための、

道具に武器にしてやろうとするから。

 

その本音も、

その感情も、

自分の中で生まれたのだから、

自分のところにやってきてくれたのだから、

それがどんなものであれ、

自分が受け取るべくして受け取ったギフトだ。

 

他人には、

その本音に対する、

その感情に対する、

責任はないのだということを知る。

 

本音も、

感情も、

乱暴にぶつけるものじゃない。

大切に丁寧に優しさという包み紙にくるんで、

相手に差し出すものだ。

 

そうして受け取った贈り物を、

邪険に扱える人は、そうはいないはず。

 

もちろん、その相手が、

大切にするのか、捨ててしまうのかは、

相手が決めたらいい。

贈ったものは、相手のものだ。

 

自分は、

自分の大切な贈り物を、

贈りたい人に、

贈れたことに満たされるはず。

 

本音も、

感情も、

何かを変えようとして、

誰かを責めようとしてやってくるんじゃない。

 

自分によって、大切に扱われ、

誰かに、世界に、贈られるためにやってくる。