すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

仕事イコール…。

何かの勢いで、また仕事を再開しちゃった。

週に2回の午前中のみ、の仕事。かつてないくらいの短時間勤務だ。

でも、たった2日の仕事なのに、ものすごく疲れてしまう。「仕事」というカテゴリーにある活動は、趣味や家事、育児とは違って、従事する時間以上、給与以上のエネルギーを私から奪うことに改めて驚いた。

昭和人間ゆえかな、とも思う。仕事=義務、仕事=失敗してはならないもの、仕事=滅私奉公、仕事=責任、という観念がわりと色濃く私の深いところに刻まれているのだ。

「仕事なんだから」

「働いているんだから」

「お給料をもらってるんだから」

「雇われてるんだから」

自分という存在や自分の欲求よりも、他のカテゴリーにある活動よりも、無条件に仕事を上に置いてしまう性。

これ、私の性格というよりも、自分が生まれ育った時代の思考が、私の観念に影響しつづけている証。昭和をまだまだ引きずっているというわけ。

 

大学生の甥っ子を見てると、これが全然違うのだ。アルバイトへの姿勢が軽やかで、まるで趣味の一環で、楽しそう。大学に行く延長で、友達と遊びに行く延長でバイトにも出かけている様子。

一度、彼が働くお店にお客として行ったことがあるんだけど、レジに数人並んでもマイペースを崩さない。テンパらない。昭和チームの私と彼の母君である姉とで、「あー、見てるとダメね。もっと手際よく!って言いたくなる」って、顔を見合わせて笑ったよ。

彼は、もちろん、お店の戦力として充分に役だっているのだから、私たちの心配は杞憂でしかない。

 

多分、彼にとっての仕事は、義務でも失敗してはならないものでも滅私奉公でもないんだなあ。

仕事=楽しいこと、仕事=暇な時に大学の試験勉強ができるところ、仕事=お小遣い稼ぎができる、くらいの軽さ。

 

まあ、彼ほどではないにしても、私も学生時代のアルバイトはそんなものだったかな。社会でもみくちゃにされるうちに重苦しい観念を強めた感はある。

 

仕事を丁寧にすることと、この重苦しい観念とは別物。仕事、と考えるだけで、必要以上に身構えて、力んでしまう。もう、えいやって捨ててもいいのかもなあ、昭和の観念。

 

 

 

 

 

 

身体は失敗しない。

鬱っぽい時にやってはいけないのが、焦ること。

でも、鬱に初めてなった人や、何度かなってても基本鬱を否定している人はやりがち。

 

早く何とかしなくちゃ。

このままじゃまずい。

ずっとこのままだったらどうしよう。

 

焦りという思考、感情は、ものすごくエネルギーを使う。まさにアクセル全開だね。

 

ただでさえエネルギーが減っている鬱の時に、これやると一気にガス欠になる。こうなったらもう病院行くしかないから、初めての人には好都合かもしれないけども。

 

身体は本当に有能だから、私たちが余計なことをしないで必要なことをしていれば、ちゃんと元に戻ることをしてくれます。

 

余計なことは、焦ること。必要なことは、身体の声を聞くこと。

 

独断じゃなく、身体が要求する睡眠、休息、食事、運動、娯楽、に細かく細かく答えていけば、つまりエネルギーの材料となるものを必要なときに必要なだけ投入していけば、後のことは勝手にしてくれちゃう。

 

例外は、身体が死を決めている時、つまり寿命の時だけだよね。

 

身体は言う。

「わたし、失敗しないので」

本当にそうだと思う。

久々の、鬱。

坂口恭平さんのツイッターを最近よく見ている。

いいなあ、と思う。うん、とってもいい。鬱や躁鬱の人には薬以上の薬効があると思う。

 

なぜ、そんなにいいと感じるかといえば、私がいま鬱という状態にまさしくいるからだ。

二週目くらいに突入したかな。こうして文字を書けるから重篤ではないだろうけど、疲れがたまっているというレベルとは質的に違うのがわかる。エネルギーがバランスよく自分を流れていないといえばいいのかな。

 

症状といえば、めまい、眼振、頭痛、肩こり、首のこり、胃腸の不調、そして力が入らない、身体が重い、やる気が起きない、他人と話したくない、知っている人と交流したくない、横になっていたい。

でも食欲はある、果てしなく眠っていられる、涙が止まらない時がある。

 

結婚してしばらくたってからと、30代に入ってすぐに同じような症状があったから、「あ、あの時の感じだ」というのが何となくわかる。

 

今、その二回の時と明らかに違うのは、体はつらいのだけど、苦しいのだけど、でも絶望的とかではないの。死にたい、とかでもないの。

 

前回、前々回の時は、「そんな自分を責める」というのがあったから強烈だったよね。鬱になってしまう自分、うまくできない自分、弱い自分、全部がバッテンだったからそんな風になっちゃう自分を責めてたんだよね。他の人はちゃんとできるのに、って。でも、どうやって元に戻ったんだろうか。あんまり記憶にないなあ。

 

今回は、その「責める」がほぼないの。責める自分も責められる自分もどこにいる、ってくらい薄くなっちゃって。ただ、ここに身体があるの。エネルギーが上手く流れていない身体があるってだけ。

 

鬱って心の病じゃないよね、って本当に思う。人としての弱さとかでも全然ない。体質だよね。体の、脳の、特性だよね。しいて言えば、反応する力が強いということだと思う。

 

外側のこと、自分の中の不一致に、ものすごく反応する力が強い。イエスが強い代わりにノーもものすごく強い。

 

この世界はノーがなかなか言えない世界だから、そのノーを一生懸命自分の中で何とか消化しようとして、消化不良になっちゃう、みたいなさ。

 

HSPという人たちの特徴に私も当てはまるのだけど、繊細な人たちって、弱い人ではないのだよね。むしろ反応できるという点では強い人だと思う。

反応することがこの世界は大変だから、この世界の常識では「弱さ」というレッテルを貼られがちだけど。

 

今の私はありがたいことに、仕事をしていないし、夫は単身赴任、転勤族だから近所付き合いも学校付き合いも希薄。

世話をするのも小学生の息子だけ。息子のおかげで、鬱の中にも感情が起こり、笑いや諍いが起こり、ルーティンと時間感覚が保たれている。

 

最低限の日常をこなしながら、何に意識を置いているかといえば、体の要求に徹底的に答えること。心の声や魂の声は、頭にもやがかかってもうわかんない。ひたすら体に従っている。体に導いてもらっている。

 

食べたいときに食べたいものを食べたい量食べる。

明るいリビングでソファーに横になる。

カーテンを閉めて寝室のベッドでねる。

録画したドラマを見る、疲れたらすぐ消す。

夜、息子の塾のお迎えがてら散歩したり買い物する。

 

体への接し方は、優しくて献身的なお母さんであり、有能で従順な秘書や執事だな。

 

さあ、鬱明けはいつかな…。

早く明けてほしいな。

 

 

 

 

 

 

 

母親10年生にして思う子への愛。

子どもが生まれてもうすぐ10年。

むちゃくちゃ可愛くて愛しくてこの子のためだったら何でもできる全て投げ出せるー、という感情と、もうこんなやつ知らん、腹立つ、ムカつく、大大大っ嫌いーという感情と。

 

この両方がちゃんと混じりあって溶け合って、その都度昇華されたものを愛って言うなんじゃないかな、ってお母さんという役割をするようになって10年経った今、思っている。

 

いいお母さんていうのは、どうしても前者の感情だけをもつお母さんだと思われがちで、後者の感情はお母さん自身にも周囲の人にもちょっと受け入れにくい感情なんだけど、でも本当はそうじゃない。

 

本当は後者の感情もちゃんと経験して受け入れない限り、子どもとの間に本物の愛は生まれない。後者がないままに子との間に発生しているそれは愛とは違う何か、なんじゃないのかな。いいお母さんをやって安心してたらダメなんだよね。いいお母さんをやる前に、嫌なお母さん、醜いお母さんも散々やらなくちゃ、そこには行けない。

 

わが子に可愛いしかないのは、すでに悟っている人か、自分に嘘をついてる人か、自分以外の誰かがメインで子育てをしてくれている人なのかな、と思う。あと、子どもの成長段階の中に時々ある奇跡の天使ステージはあるかもね。反抗期はそれが反転するだろうから、まあ、ずーっとそれだけってのはない。

 

可愛いって、恋みたいなものかも。

相手のいい部分だけが見えるのはまさに恋。たまに会う相手、よそ行きの顔だけで付き合える恋。時々しか子どもと関わっていないタイプの父親やジジババ、おじおばは、こっちの感じが多いかもね。

 

だけど、子どもと一緒にいる時間が長くて、彼らの一挙手一投足の責任を被りがちなお母さん、つまり子どもにコミットすることを余儀なくさせられるお母さんはずっと恋に落ちてはいられない。

 

旅先としては素敵なのに実際に住んでみたら素敵だけでもなかった場所だったというパターンや、好きで始めたスポーツにのめり込んだら負ける苦しみ、上手くなれない苦痛も味わった、というのにも似ている。

 

でも、そのどっちもあるからこそ生まれるもの、どっちも味わうことでジワジワと心の深い場所に身体の細胞一つ一つに刻まれるものってある。それが愛だよな。

 

愛はコミットの先にあるものだし、コミットはポジとネガの両方を受け取ることでもある。片方だけはつまみ食いレベルだから、大して栄養にならない。

 

そして、子どもってさ、その存在そのものが母親にコミットを突きつけてくるものなんだよね。住む場所もスポーツも仕事も結婚も極端な話自分の意思でコミットから外れられるけど、子どもにはそれできないもん。やーめた、ってできない(中には、環境上、物理上、魂上できる人もいるかもだけど…)。

 

私、子どもを産むことが実は怖かったんだけど、これに無意識に気づいてたんだと思う。逃げられないことにコミットするのが、母親になるってことなんだって。すごーく怖かったよ。その逃げられない、ということがね。

 

でもね、もちろん後悔は一ミリもしてない、不思議だね。子育てに限らずポジとネガ両方あることをやる時って、やる前は怖いのに、やった後は必ずやって良かった、なんだよ。

人間は、コミットが好きなんだろうね。いや、エゴの部分では拒否しててもコミットしちゃうってのは、魂はそれを望んでるんだな。

 

将来子育てが終わった時や、自分が死ぬ時は、もうきっと純粋な愛の視点にいると思う。コミットしたからこそ味わったあらゆる感情を昇華した私として、わが子の幼い日の残像を追いかけながら、「私のところにやってきてくれたあの子、可愛かったなー、本当に可愛かったなー」って呟くような気がするわ。

 

今は道半ば。魔の2歳は経験済みだけど、反抗期はまだ未踏。味わうべき感情は、可愛いも、大嫌いも、愛しいも、ムカつくも、ネガもポジもまだまだたーくさん残ってるはずなんだな、これが。

 

ガンバロー💦

 

 

 

 

いろんな仲間。

先日とある本屋に行ったら、あるコーナーに人だかりができている。夏休み中の小学生男子たち7、8人、学年はバラバラかな。

 

そのコーナーとは、図鑑系の棚。王道の大型版図鑑からミニ図鑑、流行りの読み物系やサバイバルシリーズまで、図鑑系のあらゆるジャンルが揃っている。

 

立ち読みだったり、用意された椅子に座っていたり、壁にもたれていたり、みんな思い思いの方向に体を向けて、互いに邪魔にならないバランスで自分のスペースを確保している。

 

ちなみにこの本屋さん、ファミリーを相手にしているからか、子どもの立ち読みに非常に寛容な様子。

 

私、しばらく立ち止まってじいーっと見入ってしまった。

 

恐竜やら危険生物やら昆虫やら天体やらサイエンスやら、それぞれがそれぞれの惹かれる世界と我を忘れて交信してる小さな姿たちに。そして、彼らからは「こうきしん」と「むちゅう」というとっても質の良い波動がユンユン出ている。本屋の中でその一角だけ、シンと清冽な空気が広く漂っているとでもいうかな。

 

あ、子どもっていいな、男子に多いこのオタク的な感じ超いいな、ってしみじみ。(女子の中にももちろんオタクはいますね)

 

そして、彼らはきっと顔見知りではないだろうけれど、もうこれで仲間だよな、と思ってしまった。同じ穴の狢というオタクを揶揄する意味合いではなくて、結構本当の仲間。似た波動で共振しあっている仲間。

 

積極的なコミュニケーションをわざわざとるような間柄じゃないけれど、ラグビーやサッカー、野球などの集団競技で切磋琢磨しながら1つの目標をめざす熱い絆はないけれど、これも紛れもなく仲間だよ。

 

違う世界を覗きながら、違う夢中を追いかけて、新しいモノを知る喜び、彼らの胸のあたりからは同じものが溢れモクモクと立ち上っている。一期一会だけれども、見えないものでゆるやかにつながっている関係。

 

で、もしかしてふっと目があった時、彼らはお互いの世界については語り合わないけれど、いやちょっとは語るのかな、ニコッとかニマリとか軽く微笑むんじゃないかな、と想像したりして。言葉にするとちんぷだけど、「よ、君もか!」ってな感じでさ。

 

前回書いた谷川さんの「ともだち」の詩もそうだけど、仲間っていったって、別にいつも一緒にいたり、遊んだり、会話したり、濃いコミュニケーションを交わす仲間だけじゃないんだよね。いろんな定義があっていい、いろんな仲間がいていい。だってそっちの方が楽しいし、豊かなんじゃないかな。

 

そんなことを思った、夏休み終わりの午後のひととき。

 

 

 

 

友だち。

人との交流が、いま、かなーり薄い。

 

1日の中で息子以外の人と話さないことも結構あるのだけど、そんなには苦じゃない。大丈夫か?私、となりつつも、寂しさより楽さのが上回る。ランチやお茶したいよりめんどくさいが勝ってしまう。おしゃべりしたいより愚痴聞きたくない、相談相手とかムリーが上回る。

 

苦の部分もあるけれど、寂しいのもあるけれど、それはどっちかというと、人間関係が薄いことそのものよりも、そういうのが平気な自分はおかしい?一人でいる時間が極端に多いのは変わってる?という他者目線を意識した時に出てくる思考のせいかな。

 

私、ほおっておいたら一人で結構長く引きこもれる生き物でした(笑)。ナマケモノ

 

ずっと人づきあい、得意な方だと思っていた。仲良くなるのも早い、とも。

 

でも、全然違ったな。笑っちゃうほど苦手だ。

 

ずっと頑張ってたんだな、と思う。

普通でいるために、子どもの友だち付き合いのために、私はたくさんの友だちに囲まれているという安心感を得るために、誰かの愚痴聞き役や相談相手をして自分の存在を必要と感じてもらえているという実感を感じるために。

いや、もちろん、その付き合い、全部悪くなかったんですけどね。一つひとつ大切なつながりでもありました。

 

でも、多くは、時間と共に環境の変化と共に人生の優先順位の違いにより流れていくもので、今の私にはもう合わないもの、重ならないものとなっちゃった。小麦と同じ。

 

ちなみに、数十人いるLINEの友だちリストの中で、この人は私の友だちだなって思う人(向こうがどう思っているかはわかんないけど)を数えたら3人とか4人とかそのくらい。 少なって自分でもちょっと引いた。

私、友だち少ないです!間違いない。今頃自覚した。

 

 

そんなこんなで友だちについて考えていたら、谷川俊太郎氏の作品の中に「ともだち」という詩があるのを思い出した。そして久しぶりに読んでみた。子どもが小さい時に何度か読み聞かせをしたとってもいい詩です。

 

その中で

今の私にピンとくる部分いくつか。

 

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ともだちって いっしょに かえりたくなるひと。
ともだちって みんなが いっちゃったあとも まっててくれるひと。
ともだちって そばにいないときにも いま どうしてるかなって おもいだすひと。

ともだちはともだち
すきなものが ちがっても ともだちは ともだち。
ことばが つうじなくても ともだちは ともだち。
としが ちがっても ともだちは ともだち。
おかあさんと おとうさんも ときどき ともだちみたい。
にんげんじゃなくても ときには ともだち。

……………………………………………………………

「ともだち」谷川俊太郎より抜粋

 

ともだち

ともだち

 

 

あは、でも、ともだちいいなぁ。ちょっと泣ける。じーんとくる。新しいともだち、欲しいな。楽でめんどうくさいのが少なくて、愚痴や相談がないやつ限定で。

 

100人いたら。

100人いたら100通りの生き方があって、

100人いたら100通りの心地よいがある。

 

あなたの生き方と心地よい、

わたしの生き方と心地よい、

似てることもあれば、

全然ちがうこともある。

 

あなたとわたし、

同じ人ではないことを知る時、

ちょぴりのさみしさと自由を味わう。

 

あなたはあなたの生き方と心地よい、

わたしはわたしの生き方と心地よい、

探して求めて到達した先、

出会える場所もあるかもしれないし、

もう二度と出会わないかもしれないね。

 

わたしもあなたも、

自分の生き方と心地よい、

それに惹かれて導かれて歩いていく。

 

100人いたら100通りの生き方があって、

100人いたら100通りの心地よいがある。

 

その100が最後には必ず1つになるのだから、

それまでは、そうさ、

自分だけの1/100を味わって慈しんで生きよう。