すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

母親10年生にして思う子への愛。

子どもが生まれてもうすぐ10年。

むちゃくちゃ可愛くて愛しくてこの子のためだったら何でもできる全て投げ出せるー、という感情と、もうこんなやつ知らん、腹立つ、ムカつく、大大大っ嫌いーという感情と。

 

この両方がちゃんと混じりあって溶け合って、その都度昇華されたものを愛って言うなんじゃないかな、ってお母さんという役割をするようになって10年経った今、思っている。

 

いいお母さんていうのは、どうしても前者の感情だけをもつお母さんだと思われがちで、後者の感情はお母さん自身にも周囲の人にもちょっと受け入れにくい感情なんだけど、でも本当はそうじゃない。

 

本当は後者の感情もちゃんと経験して受け入れない限り、子どもとの間に本物の愛は生まれない。後者がないままに子との間に発生しているそれは愛とは違う何か、なんじゃないのかな。いいお母さんをやって安心してたらダメなんだよね。いいお母さんをやる前に、嫌なお母さん、醜いお母さんも散々やらなくちゃ、そこには行けない。

 

わが子に可愛いしかないのは、すでに悟っている人か、自分に嘘をついてる人か、自分以外の誰かがメインで子育てをしてくれている人なのかな、と思う。あと、子どもの成長段階の中に時々ある奇跡の天使ステージはあるかもね。反抗期はそれが反転するだろうから、まあ、ずーっとそれだけってのはない。

 

可愛いって、恋みたいなものかも。

相手のいい部分だけが見えるのはまさに恋。たまに会う相手、よそ行きの顔だけで付き合える恋。時々しか子どもと関わっていないタイプの父親やジジババ、おじおばは、こっちの感じが多いかもね。

 

だけど、子どもと一緒にいる時間が長くて、彼らの一挙手一投足の責任を被りがちなお母さん、つまり子どもにコミットすることを余儀なくさせられるお母さんはずっと恋に落ちてはいられない。

 

旅先としては素敵なのに実際に住んでみたら素敵だけでもなかった場所だったというパターンや、好きで始めたスポーツにのめり込んだら負ける苦しみ、上手くなれない苦痛も味わった、というのにも似ている。

 

でも、そのどっちもあるからこそ生まれるもの、どっちも味わうことでジワジワと心の深い場所に身体の細胞一つ一つに刻まれるものってある。それが愛だよな。

 

愛はコミットの先にあるものだし、コミットはポジとネガの両方を受け取ることでもある。片方だけはつまみ食いレベルだから、大して栄養にならない。

 

そして、子どもってさ、その存在そのものが母親にコミットを突きつけてくるものなんだよね。住む場所もスポーツも仕事も結婚も極端な話自分の意思でコミットから外れられるけど、子どもにはそれできないもん。やーめた、ってできない(中には、環境上、物理上、魂上できる人もいるかもだけど…)。

 

私、子どもを産むことが実は怖かったんだけど、これに無意識に気づいてたんだと思う。逃げられないことにコミットするのが、母親になるってことなんだって。すごーく怖かったよ。その逃げられない、ということがね。

 

でもね、もちろん後悔は一ミリもしてない、不思議だね。子育てに限らずポジとネガ両方あることをやる時って、やる前は怖いのに、やった後は必ずやって良かった、なんだよ。

人間は、コミットが好きなんだろうね。いや、エゴの部分では拒否しててもコミットしちゃうってのは、魂はそれを望んでるんだな。

 

将来子育てが終わった時や、自分が死ぬ時は、もうきっと純粋な愛の視点にいると思う。コミットしたからこそ味わったあらゆる感情を昇華した私として、わが子の幼い日の残像を追いかけながら、「私のところにやってきてくれたあの子、可愛かったなー、本当に可愛かったなー」って呟くような気がするわ。

 

今は道半ば。魔の2歳は経験済みだけど、反抗期はまだ未踏。味わうべき感情は、可愛いも、大嫌いも、愛しいも、ムカつくも、ネガもポジもまだまだたーくさん残ってるはずなんだな、これが。

 

ガンバロー💦