すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

我慢か、愛か。

小学生の息子は、嫌いな野菜が多い。というより、好きな野菜がほとんどない。

 

きゅうり、ブロッコリー、じゃがいも、人参、コーンが好きだと本人は言うが、それも、「好きな野菜がないのはマズイ」という、彼なりの小さなプライドによるもので、普段の食べっぷりをみても、その野菜たちが「好き」というカテゴリーに入るシロモノではないな、と母は勝手に思っている。

 

男の子特有なのかもしれないが、自我の芽生えが起きてきた頃から、彼の野菜嫌いが始まった。そして、その頃の私は、特に子育てにおいては、真面目で常識的で「べき」や「ねば」が沢山あった。食事に関しては、「好き嫌いはできるだけしない」「三角食べ」「苦手な野菜も克服すべし」なんて考えに支配されていた。

 

でも、目の前の息子は野菜を食べたがらない。それをみて、なんとか言いくるめたり、「これ食べないとオヤツあげない」とか「野菜を食べないと病気になるよ」とかなんとか、半分脅して食べさせようとした。でも、嫌なものは嫌なんだろう。一口食べるごとに苦虫を噛み潰したような表情になった。見ている方もたまらなかった。自分が逆の立場だったら、と胸が苦しくなった。

 

堪え性のない私は、すぐに降参だった。その頃読んだ、「子どもが野菜嫌いで何が悪い!」という本にも後押しされて(「子供が野菜嫌いで何が悪い」幕内英夫 - すれっからし手帖 ←この本を紹介した以前の記事)、もう息子の野菜嫌いと格闘するのを辞めた。自分が採用していたガチガチな考えを捨て去ったのだった。

 

それから、数年。小学生になった息子は、給食で嫌いな野菜に出会うと、牛乳で無理やり流し込んだり、パンが入っていたビニールの包みにこっそりくるんだり、残してもよくなる給食の終了時間まで粘ったりしてやり過ごしている。学校が好きで、基本脳天気な息子も、給食だけはストレスフルに違いない。

 

そんなこともあって、家では、ほとんど息子の嗜好を優先して、好きでもない野菜を食べさせることはしていない。母子で違うメニューにすることも結構ある。

 

数日前にある出来事が起きた。

 

その日の夕食に、私は、春雨と牛肉の炒め物を作っていた。息子が学校では食べられた、と自慢していたアスパラとブロッコリー、人参を加えた。ふと、あー、別々のメニューを作らないって楽だな、息子が新しい野菜を好きになってくれたら嬉しいな、という気持ちが湧いてきた。

 

見た目も美味しそうだし、味には自信があるし、きっとこれなら美味しいって食べてくれるぞ、って密かに期待した。

 

いざ食卓に出すと、その期待はあっけなく裏切られた。息子は、好きではないおかずが出てくる時にいつもするように、ご飯ばかりを先に食べて、おかずは面白くなさそうに箸で突いているのだった。

 

それを見て、いつもは愚痴程度でやり過ごすのに、突然に猛烈な怒りが突き上げてきて、息子に怒鳴り散らした。 

 

最初は、

そんなんじゃ栄養が偏って病気になるよ!

もうあんたのご飯は作りたくない!

おやつをたくさん食べるからこうなるの!

好き嫌いが多すぎる!

という息子を責める声だった。以前、ガチガチだった私とよく似た声だった。

 

やがて、

お母さん、別々のメニュー作るの嫌だ!

一生懸命作ったものを食べてもらえないのは悲しい!

という、こうされるのが嫌、悲しい、という自分の感情を告白する声になった。

 

息子は申し訳なさそうな表情になって、「いいよ、食べるよ」と、好きではないおかずを静かに食べ始めた。全然嬉しくなかった。その姿に傷ついた。自分の要求と期待を一方的に息子に押し付け、息子に望まないこと、嫌なことをさせてしまった自分に耐えられなかった。そして、やっぱり、今まで通りのやり方にしよう、息子を優先させよう、という、その古びた思考がやってきた、

 

と、その時に、

 

ダメダメダメ!その思考がダメ。その我慢こそがすべての元凶なんだってば。私の心にある「悲しい」「◯◯してほしい」という叫び声が、もう私の声を無視するな、と釘を刺した。

 

息子が寝てから考えた。というより、最近のやり方は決まっている。自分の中にある思いをどれ一つ殺さず全部ここに晒してみて、あとは、全部神さまに投げちゃおうって。作ったものを食べてもらえないのは悲しい、おかずをいつも別々に作るのは面倒だから嫌だ、息子に無理矢理なことはしたくない、息子に我慢をしいたくない、等々。

 

そしたら、ほどなく降ってきた。アイデアが降ってきた。息子に、好き、普通、嫌いの食べ物リストを作ってもらって、私は、そのうちの好きと普通を作る。嫌いリストにあるものは作らない。

 

息子に提案すると「嫌いは無理だけど、普通までなら食べるよ」と気持ちよく賛同してくれて、リストも細かく作ってくれた。

 

そしていざ、これまで作ったことのなかった卵とほうれん草のスープを少なめにして食卓に出した時、息子は、少し無理していたかもしれないけれど、「思ってたより美味しかった」と言ってくれた。

 

そして、私も、「嬉しいな。君と一緒にほうれん草の入ったスープが食べられるなんて、夢みたい」と、応じた。多分、二人ともとっても心が満たされた。

 

自分の好きと相手の好きと、自分の嫌いと相手の嫌いと、全部どれにも文句をつけずに並べて、その中で、たとえば自然に自分の好きをお互いが譲る行為がでてくるとき、それは妥協なんかじゃなくて、自分の中の愛と相手の中の愛が拡大することになるって発見があった。

 

そこに、無理やりとか抑圧がないことが大前提だけれどね。妥協と認識するなら、やっぱり譲らない方がいい。もっと違うやり方があるはず。愛と妥協は、そのエネルギーが果てしなく遠いから。

 

とにかく、自分にも他人にも正直でいることが、愛の恩恵を引き出すコツかも。自分の中にあるものを全部誤魔化さずに吐き出すと、神様は最良のやり方を教えてくれる。