すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

循環が大きくなるとき。

ほぼ毎日、瞑想の時間を15分くらい取っています。あまり厳しい取り決めはなく、アロマを使ったり、ヒーリング音楽を取り入れたり、姿勢も座禅組んだりソファに寝転がったり、その日の気分や体調に任せた自己流。

 

瞑想は、呼吸から入るのが基本ですが、私はこれがなかなか苦手でして。というのも、私の呼吸が細くて浅くて、観察の対象としては弱いのですよ。

 

ところが、この呼吸から、今日大きな気づきをもらいました。

 

鼻腔のところに意識を合わせながら、少し頑張って、吸う感じ、吐く感じを感じようとしますが、相変わらず、弱くて、浅い。

 

ダメだなぁ、と思いながら、ふっと、この吸った空気は、私の身体のどこに行ってどうやって戻ってくるんだろう、という好奇心が湧きました。

そして辿ってみると、微細ではあるけれど、たしかに喉を通り胸のあたりを回って身体の外へと吐き出している。

 

するとまあ、何というか、

すごぉい、

ありがたぁい、

しかも、全部ただだよ、

なにこれ〜!

という感謝と感嘆の気持ちが溢れて、涙もふわぁー、と止まらなくなりました。感謝、感嘆の対象は、空気や鼻、肺、この身体を無条件に生かしてくれている見事な呼吸というシステムですね。

 

そうしたら、不思議なんですが、呼吸が途端に深く、大きく、ゆっくりとなっていったのです。その変化、吸う喜び吐く喜び、があまりに鮮明で驚いてしまい、すでに瞑想してる場合ではなくなってしまいましたよ(笑)。

 

鼻も、肺も、呼吸というシステムもずっとあった。空気も無限にあった。その素晴らしさ、ありがたさに気づき、喜びを持って受け入れたとき、その循環は大きくなっていったのですね。もっともっと吸えるようになり、吐けるようになったんです。

 

私たちの命の法則は、吸って吐いての呼吸と同じ。吸ったものを充分に味わい喜びや感謝に変えた瞬間、吐くものは豊かさを帯びる。それが大きな循環につながっていきます。

 

与えるものは受け取るもの、って考えると、与えなくちゃという窮屈感がやってくるけれど、呼吸がリラックスしないとうまくいかないように、与えるは、そんな頑張ったものじゃなくて、喜びや純粋な感謝という意図のないリラックスを前提にするものですよね。

 

息子を見てると思いますが、子どもは、この辺がとても上手ですよ。吸ったものが自分を楽しませるものだったり気持ちよくさせるものだと、大喜びしてはしゃいで、周りを幸せにする感情を吐きだします。

 

それ見ると、また、与えたくなるじゃないですか。もっといいものを、もっと楽しいものを。親やジジババ、まわりの大人は(笑)。でも、損した、とはならない。実は子どもに与えられていることに無意識に気づいているから。

 

子どもは与えられる存在じゃなくて、もっとも与える存在なんですよね。喜び、という豊かな感情エネルギーをね。だから、多寡に限らず、うちも息子の所にばかり、豊かさが集まってきます。一番財産は少ないけれど、一番集まってきて、循環の輪が一番太いですもん。

 

呼吸も、人間関係も、お金や豊かさ、も、循環が大きくなるのは、リラックスしているとき、そして、与えてほしいものを与えられた時に素直に受けとり、味わい、喜べるか、なんですよ、きっと。

 

明日は、ちゃんと瞑想しますよー。