すれっからし手帖 II

魂のわたしとして。

誰も、責めない。

去年だったか一昨年だったか、「問題は解決するな」というシュールなタイトルの本を読みました。

 

問題は解決するな

問題は解決するな

 

 

自己啓発の類の本かと思いきや、スピリチュアルど真ん中の本。

 

問題は、解決するな、味わい尽くせ。

問題は、手放せば消える。

という、常軌を逸したメッセージに、いやいやいや、そんなわけない、と、とっさに自分の中のエゴが反応するわするわ、でした。

 

でも、この手の本や覚者と呼ばれる人の本を何冊か読むと、似たようなメッセージが書かれている。

 

問題は、問題と思うから問題になる。

問題にエネルギーを注ぐと、悪化する。ほおっておけば、あるべきところに落ち着く。

 

これ、体感を重ねると、絵空事ではなくて真理だとわかります。

 

 

以前勤めていた職場に、発達障害の診断を受け、幼少期の激しいトラウマを抱える女性がいました。私は、彼女と指導係をつなぐサポート役や相談役のような位置づけでした。

 

そして、問題が次々と起きた。

 

彼女の指導係の女性が、彼女の事務仕事の出来なさ具合に日々怒りを貯める。

彼女が指導係が怖いと怯える。

彼女が頻回に倒れる。

指導係と、彼女を採用した上長との関係が悪くなる。

 

元々援助職だった私が、どんな立ち位置にいたかと言うと、ひたすら彼女に寄り添いました。彼女の不安や不満を聞き、彼女のあり方や彼女の障害を理解してもらえるように、指導係に働き掛けました。上長とも話し合いを重ねます。

 

ただ、ちっともうまくいかない。

彼女を擁護しようとするばするほど、事態は悪化する。

指導係の彼女に対する態度は厳しくなる。

彼女は泣いてばかりいる。

 

もう、お手上げでした。

 

普通の援助職ならば、さらに策を講じ、行動を起こすのでしょうが、私はその職場では援助職ではありませんでしたし、何か、もうそれじゃない、むしろ、それをしたくない、と思っていました。

 

そして私がしたのは、

何もしない、

でした。

さらに言うと、何もしない、というそのあり方に、

誰も、責めない、

という意識を乗せたのでした。

 

彼女を責めない。

彼女を責める指導係を責めない。

指導係の怒りやストレスに対処しようとしない上長を責めない。

そして、一番大切にしたのが、

彼女を理解しない指導係や対処しない上長を無意識に責めている私自身を責めない。

誰も、責めない。

そのあり方を、責めない。

 

もちろん彼女からも指導係からも相談を持ちかけられたら、その時の素直な意見や気持ちを言うことはありましたが、

自分のアドバイスを聞くべきだとか、聞いてほしい、とかは捨てていきました。

自分が解決しよう、しなければ、という思いについても同じです。

 

やがて、本当に静かに、ゆっくりと事態は動いていきました。

 

彼女は、事務の仕事から配置換えになり、彼女の周りにあった問題は薄れていきました。

小さなトラブルは相変わらず起きましたが、それも起きては消え起きては消え、

私がその職場を去る頃には、彼女は自分で自分を助けられる人として、私の目には映るようになっていました。

 

誰も責めない、何も咎めない、というのは、つまり神の視点、高次のあり方、です。

 

その視点、あり方から問題を眺める時、それは解決されるべきものではなくて、気づきを促すために現れ、自ずと解決してゆくものだったのです。