グルテンフリー♡生活
一年半くらい胃や腸の不調がありまして、いろんなことを試したところ、どうやらグルテンがダメになってしまったようです。
アルコールも全然飲めなくなったし、ピアスもあらゆる素材がダメになったし、元々私の身体に合わないグルテンも摂取してもいい許容量を超えたのかな、と思います。
花粉症やヘアカラーのアレルギーもある量を超えると発症するようですから、私にとってのグルテンもそういう類だったのかもしれません。
思えば、それまでご飯党だったのが、二十歳前後にパンの美味しさに目覚めて朝食はほぼパン、ランチはだいたい麺料理、という小麦ざんまいの20うん年ですからね。徐々に徐々に小さな炎症でもって、「これもうダメよ!」と身体は私に伝えてきたのでしょう。
小麦アレルギーではないので微量の小麦粉なら今のところ大丈夫。小麦粉が入っている醤油やカレールー、天ぷら粉もだいだいいけますが、麺、パンは特にダメ。グルテン含有量が高い小麦粉製品ほど、食後結構なインパクトで胃腸を直撃してきます。結構のたうちまわります。
小麦アレルギーのお子さんを持つご家庭は、小麦は命に関わるものですから、小麦というワードを聞いただけで緊張が走ったり、と精神的な拒否反応も強くなりがちだと思いますが、ありがたいことに私の場合はそのあたりはゆるやか。小麦からの卒業?みたいな感じもあるし、長年楽しく豊かな食生活を送らせてくれた小麦粉に感謝の気持ちも強いです。
た・だ・し!
小麦を避ける生活はなかなか一筋縄ではいきません。主食もおやつも、どんだけ小麦製品が多いのー?と泣きたくなります。便利ですぐ食べられるカップヌードルも冷凍うどんも、もうモリモリ食べられる日は来ないと思うとやっぱり悲しい。
それにね、最近はグルテンフリーの食品も普通のスーパーで買えたりはしますが、みんなお高いのです。小麦粉だったらこれ半分以下の値段で買えたなー、と気が遠くなることもしばしば。
そんな中でも、これまで味わった事のない食感の米粉パンとの出会いや、お手頃に買える美味しいアジア麺の手軽さ、これまではイタリアンといえばパスタだったのに米をアルデンテに仕上げるリゾットの奥深いことよー。
制限があるからこそ開かれた新しい扉の向こうの世界、グルテンフリー食品の探求が、実は今、私の一番のワクワクだったりするのです。
まさに、人生は「塞翁が馬」を実感する日々です。
グルテンフリーライフについて、また色々と綴っていきます。
雅子様。
雅子様を見ていて感じる、
圧倒的な美しさと輝き、魂がしっかりと乗っかった時の命の勢い。
魂の解放が令和とともに始まった雅子様の姿は、
同じように、それを望む、日本人の多くの人の魂を揺さぶり、鷲掴みにした。
あれほどよく聞かれたバッシングの声は鳴りを潜め、ただただ雅子様の魅力を語る声ばかり、というのは不思議でもなんでもない。
事情はあるにせよ、
魂に沿わない生き方をしている人の空気は重く苦しく、それを見ている人の心もそうさせる。バッシングしたくなる人をも生み出してしまう。
魂に沿った生き方をしている人の空気は軽く愉しく希望にあふれ、それを見ている人の心もそうさせる。バッシングしてきた人たちを賞賛する人たちにいともたやすく変えてしまう。
日本を象徴する人の姿は、日本人の未来の姿かもしれない。
特に、自分の魂を、家庭や仕事、しがらみや社会通念などあらゆる事情の中で窒息させてきた女性たちには、雅子様の姿が希望の印として一際鮮やかに見えるはずだ。
魂は死なないから、窒息しても、抑圧しても、その時が来たら必ず息を吹き返すから、大丈夫。
10年以上も心の病に苦しんだ雅子様も復活を遂げたのがいい見本だ。
雅子様はわたしでもあり、
雅子様はあなただ。
令和はそんな時代になっていく。
魂の解放が進む時代に。
魂がぴたりとおさまった命が自分の使命を果たしていく時代に。
ハードなゲーム。
私の身長が低いのは、
体力がないのは、
手先も器用でないのは、
働き者でもないのは、
それらにコンプレックスを持って
克服するためではなく、
そんな愛しずらい私を、
私が愛することができるようになるためだ。
そんな愛しずらい私だからこそ、
私を愛してくれる人と出会えるためなんだ。
私が落ち込みやすいのも、
罪悪感を抱えやすいのも、
気持ちの切り替えが下手なのも、
人に気を使いすぎて
最後爆発してしまうのも、
それがどうしようもない欠点なわけではなくて、
その性質を変えようとするまえに、
そんな難しい私を、
私が許して受け入れて、
ふさわしい舞台を選んであげるためなんだ。
一見すると
マイナスでしかない個性をたくさん持った自分を愛するなんて、
ものすごく大変で、骨折りなんだけども、
この人生を生きるっていうのは、
本当の自分につながるというのは、
そういうハードなゲームにチャレンジすることなんだ。
思考。
思考があるから苦しいのではない。
その思考を信じているから、
その思考の言うことが事実だと認識するから、
その認識がもたらす反応・感情が不快だから、
苦しいのだ。
背の高い人が「ちび」と言われて苦しまないのは、自分=ちびという思考を信じていないからだ。
人間は、まるで装置のようだと思う。
その思考も、その認識も、その感情も、自覚的に生じさせているものではない。
すべて勝手に起きて、「苦しい」まで自動的に運ばれていく。勝手に起きてしまうのに、その自動システムを自分なのだと思い込み、その自分を責めて否定し、さらに苦しむ。自責に耐えられないと、他者や世の中を責めて混乱を抱え込む。
けなげだな、と思う。
愛しいな、とも。
そんな思いがわいたら、しめたもの。
けなげで、愛しい自分にできることは、ただ一つ。
その思考を信じないこと。
その思考を疑うこと。
その思考の外側に行き、距離をとって、観察すること。
そうしたら、その思考が自分じゃないって、ありありとわかるから。その自動システムを味わい愛でながら、装置でしかなかった自分を少しずつ自由にしてやれるから。
こんな自分、と生きていく。
やりたいなぁと思っていたことをすんなりやれてしまう人
自分にはとてもできない道を突き進みキラキラ輝いている人
頑張って仕事して頑張って家事もして頑張って育児までスマートにこなしている人
自分とは違う、そんな人たちのニュースを見たり、そんな人たちの情報に触れると、途端に落ち込んだ気分になる。
この気分、嫉妬や自己否定や罪悪感、みたいなもの、
言い換えれば、この人たちと比較して、自分はこんなだ…、という自分に失望する思いから発生する気分だ。
この気分が起きる時は、この思いに基づいて、この思いを真実だと信じて行動しそうになるけれど、
たとえば、だったら、自分もやりたいことをやればいい、自分もキラキラ輝く道を探せばいい、自分も頑張ったらいい、と、今のこんな自分を何とか変えようとすることに舵を切ろうとするけれど、
でも違うのだよ、全然違う、そうじゃない、と気づいた。
この気分がやってきたら、この気分をもたらした思いこそ、疑うべきって。
「こんな自分」と自分に失望し、自分を貶めた思いの方にこそ、取り組むべきだって。
やりたいなぁと思っていたことがなかなかやれない自分
自分も他人も魅了するキラキラ輝いた道を歩いていない自分
仕事も家事も育児も全然頑張っていない自分
こんな自分をやりたくて、私は生まれてきたんだし、こんな自分を生きたくてこんな自分を生きている。こんな自分が考えること、感じること、ポジティブもネガティブもすべて体験したくて、私は今ここにいる。
あの頃のこんな自分も、今のこんな自分も、未来のこんな自分も、全部よしなんだ。
自分が、こんな自分を受け入れた時に行動が起きるなら、こうありたいという思いが起きるなら、それに従えばいいし、起きなければ、それはそれでいい。
覚えておきたい。
落ち込んだ気分は、こんな自分、がもたらすんじゃない。こんな自分、と自分に失望する思いから起きるんだ。
思いを外したら、こんな自分は、どんな自分だって、いつも完璧なんだってこと。
循環が大きくなるとき。
ほぼ毎日、瞑想の時間を15分くらい取っています。あまり厳しい取り決めはなく、アロマを使ったり、ヒーリング音楽を取り入れたり、姿勢も座禅組んだりソファに寝転がったり、その日の気分や体調に任せた自己流。
瞑想は、呼吸から入るのが基本ですが、私はこれがなかなか苦手でして。というのも、私の呼吸が細くて浅くて、観察の対象としては弱いのですよ。
ところが、この呼吸から、今日大きな気づきをもらいました。
鼻腔のところに意識を合わせながら、少し頑張って、吸う感じ、吐く感じを感じようとしますが、相変わらず、弱くて、浅い。
ダメだなぁ、と思いながら、ふっと、この吸った空気は、私の身体のどこに行ってどうやって戻ってくるんだろう、という好奇心が湧きました。
そして辿ってみると、微細ではあるけれど、たしかに喉を通り胸のあたりを回って身体の外へと吐き出している。
するとまあ、何というか、
すごぉい、
ありがたぁい、
しかも、全部ただだよ、
なにこれ〜!
という感謝と感嘆の気持ちが溢れて、涙もふわぁー、と止まらなくなりました。感謝、感嘆の対象は、空気や鼻、肺、この身体を無条件に生かしてくれている見事な呼吸というシステムですね。
そうしたら、不思議なんですが、呼吸が途端に深く、大きく、ゆっくりとなっていったのです。その変化、吸う喜び吐く喜び、があまりに鮮明で驚いてしまい、すでに瞑想してる場合ではなくなってしまいましたよ(笑)。
鼻も、肺も、呼吸というシステムもずっとあった。空気も無限にあった。その素晴らしさ、ありがたさに気づき、喜びを持って受け入れたとき、その循環は大きくなっていったのですね。もっともっと吸えるようになり、吐けるようになったんです。
私たちの命の法則は、吸って吐いての呼吸と同じ。吸ったものを充分に味わい喜びや感謝に変えた瞬間、吐くものは豊かさを帯びる。それが大きな循環につながっていきます。
与えるものは受け取るもの、って考えると、与えなくちゃという窮屈感がやってくるけれど、呼吸がリラックスしないとうまくいかないように、与えるは、そんな頑張ったものじゃなくて、喜びや純粋な感謝という意図のないリラックスを前提にするものですよね。
息子を見てると思いますが、子どもは、この辺がとても上手ですよ。吸ったものが自分を楽しませるものだったり気持ちよくさせるものだと、大喜びしてはしゃいで、周りを幸せにする感情を吐きだします。
それ見ると、また、与えたくなるじゃないですか。もっといいものを、もっと楽しいものを。親やジジババ、まわりの大人は(笑)。でも、損した、とはならない。実は子どもに与えられていることに無意識に気づいているから。
子どもは与えられる存在じゃなくて、もっとも与える存在なんですよね。喜び、という豊かな感情エネルギーをね。だから、多寡に限らず、うちも息子の所にばかり、豊かさが集まってきます。一番財産は少ないけれど、一番集まってきて、循環の輪が一番太いですもん。
呼吸も、人間関係も、お金や豊かさ、も、循環が大きくなるのは、リラックスしているとき、そして、与えてほしいものを与えられた時に素直に受けとり、味わい、喜べるか、なんですよ、きっと。
明日は、ちゃんと瞑想しますよー。
自分の心を青空にする。
息子と夫、2人でお泊り帰省中です。
久しぶりに、ゆったり、のんびり、優雅なひとり時間を満喫して、息子への愛おしさ、夫や義理の実家への感謝が静かに湧いてきます。
夏休みの日々、息子と一緒にいることが多くて、息子からの要求も絶え間無く、息子に対する気持ちの中に、
「もう、イヤー!あっちいけー!私をひとりにしてくれー!私の邪魔するなー!」
というのがかなり居座っていました。
まあ、愛しい息子に対して母としてあるまじき感情、という常識的な話は置いておいて、これは私にとっては大切な大切な感情であり、自分に対処を迫るサイン、無視するわけにはいきません。
この感情に居場所を与え、話を聞き、その願いを受け入れることが、なによりも優先事項。
そして、その願いが叶えられるやいなや、本来の愛に根ざした感情が、戻ってきたわけです。
本当は、これでめでたしめでたしなんです。が、ここから、やってしまいがちなんですが、「ああ、あんな酷いこと考えて悪かったなー」「自分だけ楽になって申し訳ないな」となるのが母のさが、いや「いい人」思考の癖です。
「もう、イヤー!」という思いが満たされ、心の曇り空がスッキリした青空に変わったのに、また違う雲、罪悪感という分厚い雲を居座らせてしまうのではもったいない。
自分を優先するのは悪いこと、嫌な感情や思いは感じないようにして愛だけを感じるべき、に支配されると、青空を覆う雲はどんどん厚くなり、広がってしまいます。
イヤー!をしっかり感じてその欲求を満たしたからこそ現れてくる愛、なんですね。この順番、この仕組みがわかっていれば、罪悪感がきても「いやいやいや、それ違うから」と軽やかにスルーできます。
例えば、あの人が憎い、あんなことされて嫌だった、という思いを、無理やり思考でねじ伏せることってありますよね。
一般常識の世界や、悩み相談の回答も、「あの人にもいいところがあるよ」「それくらいは我慢しないと…」的なものが多くて、他人に相談したら苦しみが増した、という場面も少なくありません。
憎しみ、嫌い、という感情は、あんまり歓迎されない感情たちです。でも、やってきたこの感情たち、今あるこの感情たちをないがしろにしたらしただけ、雲は分厚くなります。
この感情たちを充分に受け入れてはじめて、例えば「あの人にもいいところがあるよ」も素直に無理なく受け入れられるのです。この逆は、根本的な解決にはなりません。
まずは、自分の心を青空にすること。いい人思考や罪悪感の強い人ほど、ここに専念すればいい。
「イヤー!」が癒されつつある、ひとり時間のひとり言でした。