我慢か、愛か。
小学生の息子は、嫌いな野菜が多い。というより、好きな野菜がほとんどない。
きゅうり、ブロッコリー、じゃがいも、人参、コーンが好きだと本人は言うが、それも、「好きな野菜がないのはマズイ」という、彼なりの小さなプライドによるもので、普段の食べっぷりをみても、その野菜たちが「好き」というカテゴリーに入るシロモノではないな、と母は勝手に思っている。
男の子特有なのかもしれないが、自我の芽生えが起きてきた頃から、彼の野菜嫌いが始まった。そして、その頃の私は、特に子育てにおいては、真面目で常識的で「べき」や「ねば」が沢山あった。食事に関しては、「好き嫌いはできるだけしない」「三角食べ」「苦手な野菜も克服すべし」なんて考えに支配されていた。
でも、目の前の息子は野菜を食べたがらない。それをみて、なんとか言いくるめたり、「これ食べないとオヤツあげない」とか「野菜を食べないと病気になるよ」とかなんとか、半分脅して食べさせようとした。でも、嫌なものは嫌なんだろう。一口食べるごとに苦虫を噛み潰したような表情になった。見ている方もたまらなかった。自分が逆の立場だったら、と胸が苦しくなった。
堪え性のない私は、すぐに降参だった。その頃読んだ、「子どもが野菜嫌いで何が悪い!」という本にも後押しされて(「子供が野菜嫌いで何が悪い」幕内英夫 - すれっからし手帖 ←この本を紹介した以前の記事)、もう息子の野菜嫌いと格闘するのを辞めた。自分が採用していたガチガチな考えを捨て去ったのだった。
それから、数年。小学生になった息子は、給食で嫌いな野菜に出会うと、牛乳で無理やり流し込んだり、パンが入っていたビニールの包みにこっそりくるんだり、残してもよくなる給食の終了時間まで粘ったりしてやり過ごしている。学校が好きで、基本脳天気な息子も、給食だけはストレスフルに違いない。
そんなこともあって、家では、ほとんど息子の嗜好を優先して、好きでもない野菜を食べさせることはしていない。母子で違うメニューにすることも結構ある。
数日前にある出来事が起きた。
その日の夕食に、私は、春雨と牛肉の炒め物を作っていた。息子が学校では食べられた、と自慢していたアスパラとブロッコリー、人参を加えた。ふと、あー、別々のメニューを作らないって楽だな、息子が新しい野菜を好きになってくれたら嬉しいな、という気持ちが湧いてきた。
見た目も美味しそうだし、味には自信があるし、きっとこれなら美味しいって食べてくれるぞ、って密かに期待した。
いざ食卓に出すと、その期待はあっけなく裏切られた。息子は、好きではないおかずが出てくる時にいつもするように、ご飯ばかりを先に食べて、おかずは面白くなさそうに箸で突いているのだった。
それを見て、いつもは愚痴程度でやり過ごすのに、突然に猛烈な怒りが突き上げてきて、息子に怒鳴り散らした。
最初は、
そんなんじゃ栄養が偏って病気になるよ!
もうあんたのご飯は作りたくない!
おやつをたくさん食べるからこうなるの!
好き嫌いが多すぎる!
という息子を責める声だった。以前、ガチガチだった私とよく似た声だった。
やがて、
お母さん、別々のメニュー作るの嫌だ!
一生懸命作ったものを食べてもらえないのは悲しい!
という、こうされるのが嫌、悲しい、という自分の感情を告白する声になった。
息子は申し訳なさそうな表情になって、「いいよ、食べるよ」と、好きではないおかずを静かに食べ始めた。全然嬉しくなかった。その姿に傷ついた。自分の要求と期待を一方的に息子に押し付け、息子に望まないこと、嫌なことをさせてしまった自分に耐えられなかった。そして、やっぱり、今まで通りのやり方にしよう、息子を優先させよう、という、その古びた思考がやってきた、
と、その時に、
ダメダメダメ!その思考がダメ。その我慢こそがすべての元凶なんだってば。私の心にある「悲しい」「◯◯してほしい」という叫び声が、もう私の声を無視するな、と釘を刺した。
息子が寝てから考えた。というより、最近のやり方は決まっている。自分の中にある思いをどれ一つ殺さず全部ここに晒してみて、あとは、全部神さまに投げちゃおうって。作ったものを食べてもらえないのは悲しい、おかずをいつも別々に作るのは面倒だから嫌だ、息子に無理矢理なことはしたくない、息子に我慢をしいたくない、等々。
そしたら、ほどなく降ってきた。アイデアが降ってきた。息子に、好き、普通、嫌いの食べ物リストを作ってもらって、私は、そのうちの好きと普通を作る。嫌いリストにあるものは作らない。
息子に提案すると「嫌いは無理だけど、普通までなら食べるよ」と気持ちよく賛同してくれて、リストも細かく作ってくれた。
そしていざ、これまで作ったことのなかった卵とほうれん草のスープを少なめにして食卓に出した時、息子は、少し無理していたかもしれないけれど、「思ってたより美味しかった」と言ってくれた。
そして、私も、「嬉しいな。君と一緒にほうれん草の入ったスープが食べられるなんて、夢みたい」と、応じた。多分、二人ともとっても心が満たされた。
自分の好きと相手の好きと、自分の嫌いと相手の嫌いと、全部どれにも文句をつけずに並べて、その中で、たとえば自然に自分の好きをお互いが譲る行為がでてくるとき、それは妥協なんかじゃなくて、自分の中の愛と相手の中の愛が拡大することになるって発見があった。
そこに、無理やりとか抑圧がないことが大前提だけれどね。妥協と認識するなら、やっぱり譲らない方がいい。もっと違うやり方があるはず。愛と妥協は、そのエネルギーが果てしなく遠いから。
とにかく、自分にも他人にも正直でいることが、愛の恩恵を引き出すコツかも。自分の中にあるものを全部誤魔化さずに吐き出すと、神様は最良のやり方を教えてくれる。
本音を言う、感情を伝える。
本音を言う、
感情を伝える、
ということが、
トラブルを引き起こしたり、
相手に受け止めてもらえないことがあるとすれば、
その本音が、
その感情が、
自分の中で大切なものとして、
扱われていないから。
その本音を、
その感情を、
相手を断罪するための、
道具に武器にしてやろうとするから。
その本音も、
その感情も、
自分の中で生まれたのだから、
自分のところにやってきてくれたのだから、
それがどんなものであれ、
自分が受け取るべくして受け取ったギフトだ。
他人には、
その本音に対する、
その感情に対する、
責任はないのだということを知る。
本音も、
感情も、
乱暴にぶつけるものじゃない。
大切に丁寧に優しさという包み紙にくるんで、
相手に差し出すものだ。
そうして受け取った贈り物を、
邪険に扱える人は、そうはいないはず。
もちろん、その相手が、
大切にするのか、捨ててしまうのかは、
相手が決めたらいい。
贈ったものは、相手のものだ。
自分は、
自分の大切な贈り物を、
贈りたい人に、
贈れたことに満たされるはず。
本音も、
感情も、
何かを変えようとして、
誰かを責めようとしてやってくるんじゃない。
自分によって、大切に扱われ、
誰かに、世界に、贈られるためにやってくる。
引き寄せの法則。
半年間かけて、
ふんわりと願っていたことが、今週叶った。
夫の転勤先を、引き寄せた。
住む場所、しかり。
夫の配属先、しかり。
家、息子の学校、生活スタイル、その他諸々も、きっと願ったものを引き寄せる。
その確信が強いから、情報を力ずくで入手しようとする気が起きない。
コツがあったとすれば、
その願いに、まずは、喜び、ワクワクを感じた。
そして、
叶わなかったらどうしよう、
希望したその転勤先は実際には、自分の理想とする場所ではなくて、今の場所の方が良かったって思うかもしれない、
人のいい夫は組織の調整弁にされることもあるかもしれない、
会社というものは社員の希望を叶えてくれないものだ、
という恐れと疑いを生じさせる観念を洗い出して、丁寧に手放していった。
そして、一番は、
願いは、簡単に叶えちゃいけない、
叶うわけがない、
実際に叶えられる人はいても、
私はそっち側の人じゃない、
という自分の中の凝り固まった大きな抵抗をエイっと手放し、
代わりに、
願いは叶っていい、
私も願いを簡単に叶えていいんだ、
と素直に許可を出したこと。
そして、その通りに受け取った。
ところで、
マインドフルネス、気づき、非二元、仏教や禅ベースで真理の探求や癒しの道を歩くと、
幻想である現象にフォーカスを当てる引き寄せに対して、
どこか後ろめたさがあったり、下衆なもの、邪道、って見る向きがある。
でも、色んな観念や感情を手放したり、
自分を、意識のあらわれとして大切に扱えるようになるにつれて、
そのこだわりすらスルスル抜けて、
引き寄せてやるぞ、なんてしなくても、
自分=世界、
思考、観念=現実、
内側=外側、という視点から、
自分が見たいもの、やりたいこと、を素直に体験したい、してもいいんだ、という思いにつながっていく。
私は、いまちょっとそんな状態にある。
ちなみに、引き寄せ本は何冊か読んだけど、
バシャールやエイブラハムの伝えていることって、やっぱりすごい。
洗練されているというか、精神性が高いというか、優しいし愛はあるんだけど情け容赦ない。
そして、さすが宇宙人のメッセージ、
甘えとかドロドロした感情とか、勘違いの人情や義理が口を挟む余地のないほど淡々とゆるぎない。
彼らが実在するかどうかという点なんてどうでもいいほど、そのメッセージの強さに引き込まれる。
エゴを満たすためだけに、欲に任せてやみくもに引き寄せようとして彼らのメッセージに手を出すと、手ひどいしっぺ返しにあうだろうなって思う。
その観念こそがあなたの世界を作っている、とバシャールに言われそうだけど、
だって、引き寄せは、簡単じゃない。
引き寄せは簡単だ、簡単に引き寄せていい、というスタートラインに着くまでが、
私のように、潜在意識に窮屈なものをたくさん溜め込んでいた人間にとっては、超絶難しいのだもの。
今も、引き寄せは恐らくある、引き寄せを楽しんでもいい、くらいが、私と引き寄せの法則の距離感だ。
でも、ただ、もうこれは実感を込めていうのだけれど、自分の観念や感情を地道に解いていくプロセスは、地味なように見えて、これまた自分や他者や世界への愛というか、人間として生きる豊かさというか、そうしたものを享受する道であるし、意識からエゴに差し向けられた深い深い慈悲の道なのだよね。
これを味わうことなく何かを引き寄せても、さほど楽しめないんだろうな、すぐに飽きちゃうんだろうな、と思う私は、多分引き寄せの達人にはなれない。そして、それでいい。(笑)
ただ、選ぶ。
昨日、行きつけのスーパーで、ある場面に遭遇。
会計の時に並んだ列のレジの店員さん、ものすごーく、ものすごーくレジ打ちが遅い。しかも、前のお客さんと世間話して時折手が止まる。
うんと前の私は、
「ちょっと、いい加減にしてよ。後ろで待ってるお客さん見えてますか〜?」
と口に出さないまでもイライラモード全開で、別のレジ打ちが早そうな店員さんの列に移動してたかな。
そして、なぜか移った途端、レジが故障したり、別の店員さんに交代に変わってしまったり、お客さんが何やらクレーム言い出したりして、結局、移る前のレジより遅くなる、なんて現象を作り出していました。
最近の私は、↑の経験もあって、こういう場面でめったに移りません。状況や人を責めたり否定する意識が、不調和を作り出すことも肚に落ちたので、その状況を受け入れることを選んできました。
まあでも本心は早く会計を済ませることを望んでいるので、妙なくすぶりが心の中に残る感じ。でも、上の感覚よりはうんとラクです。
昨日は、この二つとは違う感覚がやってきました。
まず、そのゆっくりペースの店員さんをみて、
「あらま、おっそーい」
とは思ったけれど、ほとんど腹が立たなかった。そして、これまた私の前のお客さんがのんびりとした雰囲気の人で、二人が楽しそうに話す姿をみて、「ああ、楽しいんだな…」とほっこりとした気分に。
一瞬、このまま待つのもいいか、とも思ったのですが、その時の私の正直な気持ちは、できたら早く家に帰りたいなぁ、だったのです。
で、ふっとその自分の感覚に従って、隣のキビキビとした店員さんの列に移動したんです。半ば勝手に体が動いた感じ。
誰も責めず、何も否定しないで、ただ選ぶ、が自然に起きました。
すると、思ったとおりのキビキビ店員さんで、あれよあれよとお会計が終わりました。
ついでに、私の中に、気持ちいい、という感覚がやってきました。
この気持ちいい、って、もちろんレジが早くてお家に帰れるっていう自分の欲求が叶えられたのもあるんですが、
それよりも、
みんなそれぞれのあり方、それぞれの世界、それぞれの好み、それぞれの感覚でいいんだよね、みんな自分の好きなのを選んでいいんだよね、っていうのをグワーンと体感したゆえのもの。
スーパーのレジなんて超限定的な話ではなくて、あらゆることにあてはまるのではないかしら。
人を責めて、自分を責めて、のスパイラルから抜け出すとき、ただ自分の感覚に従って自分の最良を選ぶとき、そこには全体にとってまんべんなく優しい世界が広がっています。
感情の幅。
息子の春休みに、義両親と私と小学生の息子の4人で、温泉旅行に出かけました。夫がいても、このシチュエーションの旅行はかなりハードルが高かったのに、今回は仕事で多忙な夫抜きでの決行、意外にあっさり、純粋に楽しめました。
義理の関係とか、嫁姑とか、なんとかの関係というものが、今回は私の中ですっぽり抜けて不思議な旅だったのです。
そしてね、夫の家族の空気、とも言うべきか、彼がどんな思考になれ親しみ、どんな感情をよく感じ、つまり、どんな周波数の環境で育ってきたのが改めてよくわかった数日間でした。
これ、今までももちろんわかっていたはずなのに、わかることを拒んでいた何かが自分の中にあったんですね。でも、今回はその何かが邪魔をしなかった。
感覚的な説明をすれば、彼らの周波数には、私のそれとは明らかに違う何かが含まれ、私には確かにある何かが彼らにはほとんどない、という感じです。
夫のお兄さんも息子の相手をするために、夫の実家に遊びにきてくれましたが、その振る舞いがまさにこの家の象徴。
端的に言うと、夫家族には、
意地悪な気持ち、腹黒さ
というものがほとんど存在しないのですよ。
そうした気持ちを抑圧しているわけではなく、無理にいい人を演じているわけでもない。
私が、彼らのその感じをわかりたくなかったのは、私自身、彼らがもたない意地悪な気持ち、腹黒さ、をしっかりと知っているし、感じることもできるからです。
もっといえば、そんなダークな自分を無意識にジャッジして、彼らに劣等感を感じていたのかもしれません。
でも、そんな私を夫は好きになり、夫の家族もとても大切にしてくれる。私にも夫にも似た息子も、この家族が溺愛してくれる。
夫は、自分の父親のように価値観や雰囲気の似ている人とは結婚せず、母親とは明らかに違うタイプの女を妻にした。
不思議なものだな、と思います。
この辺のことを、親友が解説してくれました。
「ダンナさんの家族はいい人たちだと思うけど、話を聞いていると、感情の幅が狭いよな、って感じる。それだけじゃ、つまらないって言うこともできる。人間の本質ってあらゆる感情を経験したいものなんじゃないかな。だから、あなたがその家とつながることでバランスが取れた気がするな」
なるほどなー、と。
昔、津留晃一さんの「神というのは、すべてのエネルギー周波数を均一にもっている状態」という内容のメッセージを読んだことがあります。
神が、聖人君子的な人格を持つものではなく、善悪を超えた全て、なのだとしたら、人が自分の中の神、全体性を体験することとは、言うなればあらゆる感情を体験することなのかもしれません。
その全てを自分が感じることをしてこなければ、偏りが生じて、自分が慣れ親しんだ思考、感情とは反対側のそれらをもつパートナーを選んだり、例えば子どもがそのもう片方の半身の自分を生きることになる、ということも当たり前に起きるのでしょう。
記憶を辿れば、ユング心理学を日本に広めた河合隼雄氏の影の現象学 (講談社学術文庫)は、まさにこのことを神という言葉を使わずに説明した名著です。
私たち人間は、そうして他者を使ってでも、神を表現しよう、全体性に帰ろうとするものなのかもしれません。
私が今回の旅でフーッと楽になったのは、こうした気づきによって、私は彼らのようでなくていい、私はこのままの私でいい、と腹の底から思えたことでした。
そして、自分の半身を生きる私や息子をそのまま受け入れる夫の家族の大きさ、懐の深さには、感謝しかないのでした。
誰も、責めない。
去年だったか一昨年だったか、「問題は解決するな」というシュールなタイトルの本を読みました。
自己啓発の類の本かと思いきや、スピリチュアルど真ん中の本。
問題は、解決するな、味わい尽くせ。
問題は、手放せば消える。
という、常軌を逸したメッセージに、いやいやいや、そんなわけない、と、とっさに自分の中のエゴが反応するわするわ、でした。
でも、この手の本や覚者と呼ばれる人の本を何冊か読むと、似たようなメッセージが書かれている。
問題は、問題と思うから問題になる。
問題にエネルギーを注ぐと、悪化する。ほおっておけば、あるべきところに落ち着く。
これ、体感を重ねると、絵空事ではなくて真理だとわかります。
以前勤めていた職場に、発達障害の診断を受け、幼少期の激しいトラウマを抱える女性がいました。私は、彼女と指導係をつなぐサポート役や相談役のような位置づけでした。
そして、問題が次々と起きた。
彼女の指導係の女性が、彼女の事務仕事の出来なさ具合に日々怒りを貯める。
彼女が指導係が怖いと怯える。
彼女が頻回に倒れる。
指導係と、彼女を採用した上長との関係が悪くなる。
元々援助職だった私が、どんな立ち位置にいたかと言うと、ひたすら彼女に寄り添いました。彼女の不安や不満を聞き、彼女のあり方や彼女の障害を理解してもらえるように、指導係に働き掛けました。上長とも話し合いを重ねます。
ただ、ちっともうまくいかない。
彼女を擁護しようとするばするほど、事態は悪化する。
指導係の彼女に対する態度は厳しくなる。
彼女は泣いてばかりいる。
もう、お手上げでした。
普通の援助職ならば、さらに策を講じ、行動を起こすのでしょうが、私はその職場では援助職ではありませんでしたし、何か、もうそれじゃない、むしろ、それをしたくない、と思っていました。
そして私がしたのは、
何もしない、
でした。
さらに言うと、何もしない、というそのあり方に、
誰も、責めない、
という意識を乗せたのでした。
彼女を責めない。
彼女を責める指導係を責めない。
指導係の怒りやストレスに対処しようとしない上長を責めない。
そして、一番大切にしたのが、
彼女を理解しない指導係や対処しない上長を無意識に責めている私自身を責めない。
誰も、責めない。
そのあり方を、責めない。
もちろん彼女からも指導係からも相談を持ちかけられたら、その時の素直な意見や気持ちを言うことはありましたが、
自分のアドバイスを聞くべきだとか、聞いてほしい、とかは捨てていきました。
自分が解決しよう、しなければ、という思いについても同じです。
やがて、本当に静かに、ゆっくりと事態は動いていきました。
彼女は、事務の仕事から配置換えになり、彼女の周りにあった問題は薄れていきました。
小さなトラブルは相変わらず起きましたが、それも起きては消え起きては消え、
私がその職場を去る頃には、彼女は自分で自分を助けられる人として、私の目には映るようになっていました。
誰も責めない、何も咎めない、というのは、つまり神の視点、高次のあり方、です。
その視点、あり方から問題を眺める時、それは解決されるべきものではなくて、気づきを促すために現れ、自ずと解決してゆくものだったのです。
自分で癒せる。
他人を使って自分を癒そうとするのも、
癒していない自分を脇に置いて他人を癒そうとするのも、
同じだ。
自分を癒したい、という思いがそうさせる。
でも、多くの場合、それは失敗に終わる。
最初はよくても、やがて機能不全を起こす。
そして、他人を使って自分を癒そうとすることが、かえって癒されない自分を浮き彫りにさせる。
ならば、どうして、自分が自分を癒そうとしないのだろう。
それが一番シンプルなのに、それが一番簡単なはずなのに。
自分は自分を癒せない、自分の中にはその力はない、と、信じているから。無意識に、かつ、強力に信じているから。自分が自分を見くびっているから。
だったら、本当はそんな癒せない自分が他人も癒せるわけがない。なのに他人を癒そうとする。この矛盾を直視したら、笑うしかない。
去年、絶望と浄化を繰り返す中で、私は自分のハートと出会った。
他人を使って自分を癒そうとすることが完全に失敗に終わった時、一つの恩寵として、ハートの扉が突然グワーンと開いた。
ここ数日の間に、「ハートが開く」というのが体感としてやってきている。胸のあたりを意識すると圧倒的な安らぎと言うか愛のエネルギーが溢れでてくる。心理的な側面で言えば、私の心にあるあらゆる思い、感情を、誰に見られでも構わないと言う開放感。私が私を全面的に受け入れている状態。
— ayase (@surekarasi) 2017年5月28日
そこには、ものすごい量の、愛としか呼びようのない至福のエネルギーか眠っていた。癒しは、確かにそこにあった。
自分にしか自分を癒せない。
他人に自分の中の力を引き出してもらうことはあっても、
他人には自分を癒すことはできない。
自分だけが完全に自分を癒すことができるんだ。
これを、肚に落として生きる。私はそう決めて生きることにした。
癒されたい、という自分がいたら、この自分を癒すのは自分。そう、覚悟を決めたら、あとはハートを信頼するだけだ。